昭和51年10月01日 朝の御理解
御理解 第24節
「人に誘われて、しょうことなしの信心は、つけ焼き刃の信心じゃ。つけ焼き刃の信心は取れやすいぞ。どうぞ、その身から打ちこんでの真の信心をせよ。世に勢信心ということを言うが、一人で持ちあがらぬ石でも、大勢かけ声で一度に力をそろえれば持ちあがる。ばらばらでは持ちあがらぬぞ。家内中、勢をそろえた信心をせよ。」
しょうことなしの信心では、付け焼刃の信心だから取れやすいぞと。けれども世の中には、本当に信心の有り難さも、おかげの受けられる事も分からずに、それでも何とか助かりたいという人は沢山あろうと思うですね。だから誘う立場になっておかげを頂いていくには、やはり信心の有り難い事、自分がおかげを受けておる事。そして誘われる時にです、それこそしょうことなしにではなくて。
本当に待っておったと言わんばかりに、本当に助けて下さいと言わんばかりに、私はその誘われてくる人が世の中には実際には沢山あると思うのです。皆さんの信心が決してしょうことなしとは思えないけれども、やっぱり初めの間は誰かに誘われて、そしてまぁおかげを頂かれたのでしょうけれども、やはり助からなければならない、おかげを受けなければならないというところから、今日皆さんの信心が、育って来ておるのでございますから。自分の周囲にありますよ。
だから先月の信心の焦点ではなけれども「お役に立ちたい」という、そういう一念を燃やしておれば神様が使うて下さる。昨日は同じ人の事を三人の方が、こうまぁバトンタッチのような具合で、一人の事を願われたのですけれども、飯塚の安東さん、それに稲垣さん、それから川上さんと、その一人の事を皆お届けをして、お取次を願われるのですよ。
それをそのバスの中で安東さんが話し、まぁ向こうの娘さんから話かけてみえて、話の中から信心の話になりその信心の話を、また川上さんに、又は稲垣さんにと言う風に、バトンタッチされた訳ですよね。それで銘々が信心に誘う話をされた。実は久留米の洋裁店に勤めておられる娘さん、ところがまぁ自分の理由ででしょう四日間ばかり休んだ。そしたら父親が「お前のごたる不精もんは」そのうと言って大変怒られた。
それでまぁ怒られたから、これではならんと思うて行かれたところが、あのうお店の方で何かこう要らんもの扱いにされた。だから店の方にも行かれぇんごたる感じになったり、家にも帰られぇんというごたる悩みを話されたと。それでね「そんならあのう私達はこうして金光様にお参りしているのだから、金光様へ一緒にお参りしなさらんですか。合楽の金光様ですよ」と言うて、ところがそのう「久留米と太郎原までの定期券しか持たずにお金も持たん」とこう言われる。
ですからもうそのお金や何やら心配しなさんなと言うて、まぁバス代からお初穂からしてあげてそしてこちらへ、一昨日の生誕祭のお祭を拝んだ訳です。そしたら何んとその娘さんのお父さんが、久富建設に勤めておられる方だったそうです。ちょうどここで永田先生と会うて、なら帰る時もです、今日はこんな風じゃったら、合楽にお参りしましょうと誘われて参ってみたら、久富建設の社長さんも見えとった。ここでそしてもう帰りようなった訳ですよね。
と言う様にですもう誘いかければ、待っとったと言わんばかりにして、あのう誘わて信心をする人が世の中には、そりゃたった二人の事ですけれども。大きな悩みを持ち難儀を抱えておられる人達にですよ、本当に実意丁寧自分のおかげを受けておる事を、愛の心を持って伝え話していくという誘い方。お役に立ちたいと言うてです、本当にそういうあのう私は念願を燃やしておるなら、神様が使うて下さると思うんです。
しかもそういう、本当に求めておられる人、言うならば誘われたら本当、そのそれにのって来るような人があると思うです。世の中には難儀な人、いわば難儀が満ち溢れているんですから。そういう人達に本当に難儀からおかげを頂いて、信心の尊さ、有り難さを分からせて頂く、その喜びを伝えて行くと言う事。誘われてというか誘うてと言う事。婦人大会の時に、テーマは、「合楽示現活動の母体を目指して。」というテーマを頂いておりましたが、
その日に私が頂いた事は「土」という字と「台」という字と、いわば「土台」と頂いた訳です。それを別々に頂いた。「土」というのはまぁここでは大地の信心。言うなら黙って受けて受けて受けぬくと言う事。「台」と言う事も、あれはカタカナのムと漢字の口という字が書いてありますから、台になると言う事が無口、家の中でも自分が家の土台になるという人はそれこそ無口で、特に婦人の大会でしたから「女がさかしゅうて、牛売りそこなう」と言った様な例は沢山ある訳です。
奥さんが気の利き過ぎてから、主人が難儀をしておるところが沢山あるです。それこそ黙って子供の陰に主人の陰に、又は親の陰に隠れるようにして。そこの主婦の方がね無口でしかも土のような心で受け抜く生き方を、自分の修行の行き方の焦点にして、信心を進められたら、素晴らしい家が治まる言であろう。同時になら教会であるならば、教会が治まる言であろう。そういう人達が沢山出来てきたら、家の中がいよいよ治まって行く事であろうという御理解でしたよね。
だからその無口であるとか、ここでは黙って治めるとか言われますけれども、それはあのう只もうあの人に誘いかけたらよかろうばってんか、もう無口と言わっしゃるけん黙っとくと言う様な言では決してない訳ですよね。実意丁寧愛の心を持って人に伝えていく。なぜって世の中には誘われたくてです、本当に自分を助けて下さる仏様神様がござるならば、と言う様な思いを持っておる人が、世の中にはいくらもあろうと思うんです。
そこに実意丁寧言うならば、一人の娘さんをお導きするために、三人の方たちがバトンタッチしながらそのう導いてきて。ここにはそう言う素晴らしいタイミングが生まれて、おかげを頂いておると言う言なんです。本当に助かるというひとつの経路と言う様なものを、目の前に見るような気がするでしょうが。そんな訳で家を出る時には、お父さんに怒られて出とる。向こうへ行ったところが、店では要らん者のように言われる。もう店にも家にも帰られんぐらいな心配を持っておるところに誘われた。
そげんところがあるなら何とかお参りしたい、そればってん私はそのバス代がない。バス代ぐらいてなんてもう心配しなさんな。と言うてまぁお導きさせて頂いた。お導きさせて頂いたらその娘さんが楽になる。もうそれこそ楽に家に帰られる、いわば口実も出来た、おかげも受ける事になる訳です。そういう私はあのうタイミングが私共の生活の周辺にあると思う。それには先日申しますように、本当にそういうお役にでも立ちたいと言う一やはり一念を燃やさにゃいけません。
昨日は月末御礼の信話会が、何時もの様にちょうど十一時半頃まで、三十四、五名の方達が円陣を作って、もう一人一人時間が足りませんでしたから、半分ぐらいの方達が発表致しました。もう本当に有り難いと昨日思った事は、月末に御礼を申し上げなければおられない程しの人達が集まって来て」、その内容が出来て来た事です。昨日神様はその事を大変喜んで、私にいろいろと教えて下さった。一と月を締めくくってみて、あれもおかげであったこれも本当にこういうお繰り合わせを頂いた。
本当に御礼参りをさせてもろうて、一口でも御礼の真を人に伝えさせて貰おう聞いて貰おうと言う様な、その内容が非常に充実して来たと言う事です。もう一人一人の話を聞いておっても、その事を実感致しましたけれどもね。その中に福岡の嘉朗さんがそのう「お役に立ちたい、御用に使うて下さい」と言うてもです、心が汚れふけておる。言うならば汚い自分のようなものを、神様がいよいよ使うて下さらん。
神様のいうならばお給仕でもさせて貰うのに、お盆を差し出して「神様もう一杯いかがですか」と言うて、なら「お給仕をさせて下さい」と言うても、手はこう汚れておる顔は妙な風な顔しとる、着とる着物もざまなかちゅうなら、神様は食欲があってもねムッとしなさるじゃろうという。だから汚れ果てておってはお役には使うて頂けんと。僕の様な者じゃお役に立たんと思うておったけれども。
僕の様な者でもお役に立ちたいという一念を燃やしたら、自分の足元に手元に、お役に立たなければならん事が一杯あった事に、気付いたというお話をしたんです。私はそれを聞いて改めて私自身の事を思うた。なるほど神様の直接の御用は出来なくてもです、私が親教会におかげを頂いておる、言うならばどぶざら意の様な事も私でした。もういろんな御大祭の案内配りも私でした。お供え物を買いに行かんならんというとそれも私でした。神饌室の御用も大坪さんでした。
また御神米折りのような大事な御用にでも、親先生は使うて下さった。だから使うて頂きたいという一念があればです、どういう御用にでん嘉朗さんが昨日申します「自分の様な汚い者が、神様の前に手を差し出してどうぞ使うて下さい」と言うても、神様が向こうを向きなさるだろうけれども、いうなら遠いところから、いうならばここで履物を預からせて頂く御用でも、便所をお掃除させて頂く御用でも、言うならばそういう御用は、自分の手元足元のところに、御用のある事に気づかせて頂いたと言うのですよ。
そういう御用からです段々だんだん神様に認められて、神様が呼び止めてから「ちょいとこればお願いする」と言う様な事になって来るのじゃないでしょうか。これは私でなからにゃ出来ん御用が、もしそこにあるとするならば、お願いしてからでも御用に使うて頂きたいという、一念を燃やさなければいけない。とても私がどんがたのようなもんじゃお役に立たんと言うたら、いつまでも神様の御用には、使うて頂かれんと言う事になりますでしょう。
昨日、信話会の事をお礼お届けをさせて頂いておりましたら、今の大工さんでも使うかどうか知らんけれども、墨坪というのがあるでしょう。大工さんの持っておる船みたいなやつです中に墨の入った。そして糸をずうっと引っ張ってからピンとこうやってするとちゃんとこう、あのう線が着くでしょう黒い線が。あの墨坪をね、でその長い材木の上に一線を引くところを頂いた。
どう言う言かよく分かりませんでしたけれども、私はとにかくおかげを受ける受けないの一線を引くと言う事は、やはりお役に立ちたいの一念をだんだん燃やして行く人行かない人。そこに一線を画するものが、生まれて来るのじゃないかと言う風に、思わせて貰いました。それはまぁ私には実際は分かりません。けれどもそのお役に立ちといという一念を燃やさせてもらう。神様の願わくば手にも足にもならして頂こうと。そこに今日私が申します、誘われてしょうことなしの信心は、付け焼刃だろうけれども。
誘われた事が有り難い。いや誘うて貰いたい。もしそういう有り難い神様がござるならば、助けて下さる神様がござるならば、助けて貰いたいという人は、世の中には沢山おるだろう。皆さんの周囲をながめて見て御覧なさい。お役に立ちたいの一念を燃やしながら、そういう頂き方をさせて頂いておると、神様が使うて下さる。先月はまぁ大きな教会行事が次々と秋季の総会、それから秋季霊祭。それから婦人大会。それから生誕祭ともう本当に矢継早に、昨夜もその事を話した事でしたけども。
本当に流石に合楽じゃもあるねともう私は申しました。もうその都度都度にしょうことなしに出てきとる者が一人もいないと言う事です。この頃参ったけども又参らにゃならんというのではなくて、もうその総会なら総会霊祭なら霊祭、生誕祭なら生誕祭、婦人大会なら婦人大会にです、その言うならばお祭とか大会の一つの特色を十分に頂き、また感じられる程しのお祭なり大会が開かれていると言う事は、合楽の皆さんがです本当にお役に立ちたいと言う様な、一念を心の中に持っておいでられるからだと思うです。
だから度々の大きなお祭やら大会やらが、もう生き生きと有り難く出来るのではないでしょうか。今月はどういう信心で進ませて頂こうかと、御祈念中に思わせて頂いたら、扇風機とかねクーラーを綺麗にお掃除をして、片付けておる所を頂きました。暑い間言うなら使いに使うて来た扇風機ですねいわば。それを綺麗にお掃除をして片付ける、と言う事はおかげで涼しい思いをしたと、お礼を言うて片付ける訳ですね。もういらんもんになったけんでどっかの隅にポンとやるのじゃなくて、やはりお礼を言うて片付ける。
ははぁ今月の信心の焦点は御礼にあるなと思わせて頂いた。先月あのようにいうならば御用に使うて頂いた。御用に使うて頂いた御礼しかも今月は、御本部参拝の月であると同時に十六日の秋季御大祭。御本部参拝にお礼参拝もさせて頂こう、また十六日の御大祭にはいよいよ御礼の真を捧げての、御大祭であらなければならない。その御礼の中身をです検討して行かねばならない月だと言う事でございます。だから御礼の印にです、私はお役に立ちたいという一念を、また一段と燃やさして貰い。
今度の御大祭には一人でも多くの、言うならば誘われたい人達を、一つお繰り合わせを頂いて誘うてお参りが出来る。誘うて御本部参拝が出来ると言った様なおかげを頂く事は、いよいよ神様がお喜び頂ける事だと私は信じます。今月は御礼お礼を申し上げると言う事に、焦点をおいて信心を進めたい。言うならば昔から確かに10月この大祭月は、御礼月とも言われておる。大祭が来たからお参りすればよいというのではなくて、やはり心を込めての御大祭。しかも今日の御理解から言うと誘い誘われておかげを頂く。
そこでです土の信心とか「台」ム口、又はさんずい編にム口と書いて治めると。黙って治めるとか土台にならせて頂こう。家の土台にもならして貰おう、教会の土台にもならして頂こう。教団の土台にもならせて頂こうと言う様な、願いを持っておると言う事は、なら無口と言う事はただ黙ってさえおれば良いと言う言ではない。言うならば「土」そしてム口「台が出来る」言うならば、土に黙って受けて受けて受け抜く修行させて頂いておる内に、そのやせた土が言うならば、肥えた土に肥沃の土になる事でしょう。
なら肥沃の土が出来たならば、そこに喜びの種を蒔かなければいけんのです。その喜びの種がです、例えば今日申しますならば、誘われたい人は世の中には一杯おる。そういう人に誘わせて頂く。言うならばお道の信心をさせて頂く人達を、神様にお供えさせて頂く。それを私はですね黙って治めるという修行によって、豊かになったその土に喜びの種を蒔くと言う様な事はです、人に実意丁寧愛の心を持って伝えて行くという種を蒔いて行く時にです、一家中で御大祭にお参りをすると言う様な事もです。
もう前々から今度の御大祭に一家中でお参りするぞと、何からかにまでいろいろ前々から心掛けておけよと、家族とじゅうの者にも言うて、さぁ明日は御大祭じゃ一家中お参りするぞと、いいや私は都合があると言った様な言ではお参りできません。だからちゃんとその下ごしらえをしておかなければならない。自分の家庭だけではありません、自分の周辺にも、誘われたい人があるのです。
だから一人でも多くの人を誘うて、おかげを頂くという言う様にお導きをさせて頂くと言う事はです、黙っとったっちゃ出来んのです。愛の心を持って実意丁寧に伝えて行く。そこに本当に「私も連れて行って下さい」と言う様な、そういう種を蒔きたい。そこからいよいよ御礼月と言う事が言えれると思うのです。今月はそういうところに焦点をおいて、いよいよ神様への御礼のいうなら、真をね捧げさせて頂きたいと思います。
どうぞ。